当社の主祭神は「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」と申し上げます。
神魂命(かみむすびのみこと)の孫神にして、神武東征に際して天照大神に遣わされて八咫烏に化身し、神日本磐余彦命(神武天皇)を先導したとされ、またの名を「八咫烏命(やたがらすのみこと)」と呼ばれております。
また、長髄彦との戦いにおいて神武天皇が苦戦を強いられた際には再び降臨して神武天皇の弓に舞い降り、眩い輝きを放って敵軍の戦意を喪失させ、神武天皇を勝利に導いたとされます。
このような由来から、当社は導きと勝利の神様として、地域の皆様から深く崇敬されております。
配祀神としてお祀りされている吉井駒島神は、古くからこの地域の「井戸の神(井水の神)」として信仰されてきました。かつては独立した社として祀られていましたが、後に当社に合祀されました。 「水」はあらゆる生命の源であり、日々の生活に欠かせないものです。勝利や導きを司る賀茂建角身命が「人生の岐路」を守る神であるならば、吉井駒島神は私たちの「日々の暮らし」を足元から支えてくださる神様と言えます。
摂社・境内社として、伊勢神宮、大神神社、春日神社、住吉神社をお祀りしております。
当社は天正5年(1577年)に発生した、織田信長による雑賀攻めの兵火により、社殿や古文書等を焼失してしまったため、それ以前の由緒は不詳です。
口伝によると第33代推古天皇の治世に、「新撰姓氏録」(国立公文書館P.36)にて賀茂建津之身命の後裔と伝えられる矢田部氏の上祖が、賀茂建津之身命が神武天皇東征の途中に陣を構え、抵抗する名草戸畔を討ったという地を選び定めて祭祀を始めたのが創建の由緒と伝わっています。当地は古く鬱蒼とした森でしたが、毎夜異光があったため、調べてみると白刃の鏑矢があり、これを御神託として創建されたとも伝えられます。
以来、雑賀荘の産土神として崇敬を集め、社地も最大五町参段六畝拾弐歩を有していたといいます。(現在の面積に換算すると5.38ヘクタール。東京ドーム1.2個分ぐらいですね。)
天正五年(1577年)の織田信長による雑賀攻めの際には、雑賀孫市ら雑賀衆に対し「敵は干潮を待って(和歌川を渡り)攻めようとしているが、私が潮を引かせないようにしよう」との神託があり、その通りに潮が引かず敵兵が難渋しているところを攻めて勝利したといい、その時に踊った踊りが現在に続く「雑賀踊り」の始まりであると伝えられています。
さらに、天正八年(1580年)の第二次雑賀攻めの際には、石山本願寺が敗れて本願寺顕如・教如らが当地へ下向し追っ手に追われて洞窟を逃れたところ、海上に美女が現れて飛行しながら長刀を振って敵を防いだといい、人々はこの美女を「矢宮大明神の化現」として讃えたと伝えられています。
このように雑賀衆の本拠地だった当地が危機に瀕した際に、社殿や記録等を失いながらも当社の神が人々の精神的な拠所となっていたことが窺えます。
江戸時代に入って徳川頼宣が紀州藩主になると、寛永14年(1637年)に再興され、以来明治維新にいたるまで、紀州藩主からの崇敬も篤く、社殿の復興が続きました。江戸末期には、神札の年間頒布数は4万体を数えたといい、例祭においては、流鏑馬、神輿の御渡、奉納競馬なども催されていたといわれます。
古此の地は雑樹鬱茂たる深林也或時其の林の中より夜々異光を放ち里人大いに怪しみ光について是を探るに白羽の鏑矢有之爰に於いて里人其神なる事を知り恐れ畏みて則ち仮殿を造り巫女をして深湯立たせしむ神即ち巫女に憑託せ給ひ吾は是れ軍神也此の森に社を建て永く尊崇斎祭(いやまいまつら)ば吾又此の土を護り幸ひすべしと是即矢宮と申奉る縁なり。(社記)
天保10年(1839年)頃の矢宮神社氏子地域略図(矢宮略誌より)
紀伊國名所圖會・初編二之巻(江戸時代後期)に描かれた境内の様子です。
国立国会図書館デジタルコレクションにてご確認いただけます。
(紀伊國名所圖會・初編二之巻 P.12-13より)
徳川家康公の十男であり、紀州徳川家初代藩主である徳川頼宣公(1602-1671)が奉納された絵馬です。
徳川頼宣公の孫にあたり、紀州第五代藩主であった吉宗公の将軍就任に伴い、第六代藩主となった徳川宗直公(1682-1757)が奉納された絵馬です。
宗直公の長男であり、紀州第七代藩主の徳川宗将公(1720-1765)が奉納された絵馬です。
天正五年(1577年)、織田信長の雑賀攻めの際、戦勝を祝って奉納されたものと伝わっています。(一般非公開です。ご覧になりたい方は社務所まで)
(左)宇須山東禅寺山(現・愛宕山)の砦を守った鈴木(雑賀)孫市の奉納
(右)和歌甲崎の砦を守った関掃部太夫の奉納
石燈篭(1基 春日形龍山石造、徳川初代藩主頼宣公寄進)
釣燈篭(2対 春日形塗金造、徳川家重臣寄進)
棟札(延宝5年徳川二代藩主光貞公修葺の棟札)
弓(2張 徳川藩主寄進)